「人種、ジェンダー、アイデンティティ」とかそういう〈社会正義〉といわれているっぽい、大切そうで面倒そうなものについて、どうして面倒なことになっているのか分析した本。
リベラルっぽいこういうやつが実はリベラルではなく、ミシェル・フーコーなどのポストモダン的思想から来ている危険な思想であると指摘している。
著者の主義主張としてはリベラリズム押しのようなので、そこは踏まえて読む必要がある。
知った
- 人権がどうとか、ジェンダーがどうとか、そういったものの言説がフーコーやデリダなどのポストモダン的な流れが合ったことは知らなかった。
- こういった主張の中で、過激な言説であったり、攻撃的な言説、現代科学と矛盾するような言説がよく見受けられるなぁとは思っていた。
- フーコーがだいたいどういった事を言っていたか、脱構築だとか、パノプティコンだとか、そういうものはなんとなく理解していたつもりだったけど、こことのつながりは認識できてなかった。
- そもそもこういうやつって、リベラリズムの中の過激派的な味方をするのが正しいと思ってたんだけど、そもそもこの手のやつ (ポストモダン的な) と、リベラリズムが対立の関係にあることが全く分かっていなかった。
- 本の中では「アクティビズム」とかっていうカテゴライズだったかな・・・。いまいち「あっち側」のカテゴライズ方法がわかっておらず。
- 左派右派とか、そのあたりから思想のカテゴライズする言葉の意味理解が雑すぎた。
- ポストモダンの前段として、社会主義・マルクス主義的な立場の人が「資本主義社会の本質的な問題」だと思っていた問題がリベラリズムでだいぶ解決されてしまった、という流れがあるらしい。
- だから、こういう思想は赤い思想の人たちとの親和性がある。という理解でいいのかな。
- どうもリベラリズムと赤の繋がりがよくわからないなぁと思っていたが、そういう(そもそも繋がってない)ことだったのか。
- ファットスタディーとか正気かよと思いつつ、色々と文献読んでいるとだんだん「自分が間違ってるのか?」と思わされてしまう事もあったが、これを読んで自分の感覚は間違ってないはずという事は理解できた。
- 少なくとも同じ違和感を抱えている人はいるという事
- (身体等の)障害を考えたとき、えてして「そもそもの普通の能力が社会構築物である」というような考え方はよく見る。それが「1980年代に変質し始めた。」(No.3170) とあるが、これはもっと最近の話だと思っていた。
- 日本だとそういう思想が入ってくるのが遅いのかな。それともたまたま自分があまり見なかっただけか。
- まぁ、ある程度境界の問題の重要性はあるにせよ、障害は障害ですよね。
- いままで持っていたジェンダーがどうのとか、ファットでも問題ないよねとか、障害なんてそもそも「普通」が無いんだみたいな、違和感のあった主張の文脈が何となく一部理解できた。
- またこの自分の違和感の当然さも理解できた。
- 日本にも似た構造って結構あるよね。
- とくに同和問題とか。最近だとColaboもこういう潮流があるのかな。
- そもそも被害者文化って日本人のメンタリティと親和性ある気もする。
(ファットスタディーズの文脈で)「どんなサイズでも健康で居られるのだと論じた。医学的なコンセンサスでは、この発送は否定されている。」(No.3430)
- このどんなサイズでも健康で居られるというのはホントかよとも思いながら、そういうもんなんだろうかと信じてい待っていた部分があった。
- そりゃそんなわけないですよねー。
ファット・アクティビズム、「ファッティリンピック」 (No.3454)
- 見てみたい。
ペイリーは、〈社会正義〉アプローチへの異論を「シャドーテクスト」として扱う。つまり、〈社会正義〉に対して書かれた批判は、誠実でも有益でもなく、まともな学術として認められるべきではない、という。 (No.4105)
- 反論を一切認めず、反論したやつを吊し上げるような態度というのは大変怖い。しかし本当に最近良く見る気もする。